寿司の歴史

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現在、お寿司屋さんは数多く、いろいろなスタイルのお店が存在しています。出来た頃のお寿司屋さんに近いのは今で言う 「回転寿司」 のように私は思いますが、皆さんはいかがでしょうか?

そして、にぎり鮨が出現したのは、文化・文政年間のことといわれ、西暦1804~1829年、江戸幕府の将軍は第11代の家斉でした。

この文化・文政年間という時代は本当に面白い時代であった様で、現在の日本の大衆文化の ほとんど全てが出来上がったといわれますが、まさに鮨もその通りでした。

1824年(文政7年)頃、当時江戸の繁華街の一つであった 東両国、回向院の門前に【与兵衛鮓】という寿司屋がありました。

その店の主人、華屋与兵衛が、握りずしを始めたとされています。

『込み合いて 待ちくたびれし 与兵衛鮓 客ももろとも 手を握りけり』

という当時の文献が残っているようです。

この文献からも与兵衛鮓が握りずしをやっていた事が分かります。
これ以前の文献には握りずしのことが残っていないらしく、華屋与兵衛が最初だと考えられています。

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すしは、もともと魚肉を飯と塩の間に漬け込んで数日間おき、飯の発酵によって酸味が生まれて魚肉が白くなった時に、魚肉だけ食べるような保存食でした。

これは、今でも残っている「熟れ鮨」の原形です。この「熟れ鮨」は、日本独自の物ではなく、東南アジアで古くから発達した発酵食品なのです。「鮨・鮓」という漢字とともに朝鮮半島を経由して持ち込まれた様です。

中国の辞書には、「鮓」も「鮨」も二千年以上前から出ているようです。日本では、千年位前、紀貫之の「土佐日記」頃からで、「鮓」の字が多く出ているのは、源平の戦い(約800年前)の頃の文献だそうです。

江戸末期頃までは、俳句、川柳、和歌などに書かれたすしに関するものは、「鮓」のほうが使われています。
明治になった頃から「鮨」の字が良く使われるようになり、自然と関西寿司は「鮓」、江戸前寿司は「鮨」と使い分けられるようになっていったのです。最近のすし屋は「寿司」という字を使っています。これは、縁起を担いだ字で、今では多く屋号に使われています。

奈良時代までは保存食であった鮨が、室町時代になると、食べ物としてどれだけ保存がいいかというよりも、その旨さの方が重く見られるようになりました。
そして、飯が発酵して酸味をおびるが魚や貝の身がまだ生々しいうちに食べる様になり、漬け込みの期間もずっと短くなって、やがて飯も捨てずに食べるようになっていきました。

そして室町時代から安土・桃山時代にかけて日本人の食生活に大きな変化が表れます。

炊飯方法が「蒸す」から「煮る」の現在の方法に変化し朝夕2度の食事が1日3食に増えました。

さらに、酢のような物もこの間に作られるようになって、鮨は大きく変化をしていきました。

鮨の飯の部分が増えて「飯ずし」(いいずし)と呼ばれる鮨が誕生します。
その後、フナずしの腹に飯を一杯に詰め込んだり、現在の関西のサバの棒ずしや、小鯛の雀ずしのように、飯の上に魚や貝の身を並べて押しつけたり(現在の「箱ずし」の原型のような物)、その上置の魚の身を薄く平らにしたものを「コケラ(柿)ずし」と呼ぶ様になり、やがて飯を箱に詰めて、その上に具を置いて押す「箱ずし」が誕生していきます。


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